アクティブ・ラーニングが注目されるにつれ、PBLと称して課題を与え自由度の高い実験・実習をさせているだけの授業や、社会体験をさせるが正しい知識の習得とは無関係な活動となってしまっている学習事例がみられる。また逆に、動いてはいるが思考が受け身で指示待ちの活動、さらには、指導者からの問いかけが誘導や正答捜しになっている活動、基礎学力UPを信じて詰め込む事例も多い。時間的制約やカリキュラム上の縛りの中で、なんとか形を整え成果を出そうとするあまりとはいえ、アクティブ・ラーニングで最も重要な「学生が中心の学び」に対する、指導者の理解と信念が希薄な場合が多い。特に、知識不足を恐れ短期的な成果主義に走った結果、そうなることが多いように感じる。学生の内面で起こっている認知活動や学びに関する情動を常に観察し、そこに働きかけることがアクティブ・ラーニングでは最も重要なことである。
いかにして人は学ぶのか、本当にわかるとはどういうことか、そのために授業はどうあるべきか、という学びに対する根源的な問いからアクティブ・ラーニングは生まれた。今は、過渡期としての実験的試行が多いのも仕方がないのかもしれない。しかし、能動的に(アクティブに)得たことからしか人は学べないことを忘れてはいけない。私たちの社会生活がそうであるように、本当に重要で不可欠な正しい知識は、それがないと活動がうまくいかない。テストで覚えたように思える漢字や計算も、その後の生活の中で必要不可欠だったからこそ、また、正しく使えることで生活の質が向上する経験をしたからこそ覚え、何十年も使いこなせているのである。
学習活動は、正しい知識や情報を使うほど良い結果につながるというように設計することが重要である。図3-26のようにどのテーマの活動でも必ず太い斜線(最も重要な知識など)が必要であるように設計する、また、細い斜線の知識(最も重要ではないが習得をねらう知識など)は活動Ⅰを経験することによって確実に得られるようにする。学ぶべき知識体系の全体は、学習者自身が「必要な時」に「必要な部分」を得られるように、全体が概観できるような学習支援ツールとして準備する。
概念理解が間違っている場合や正しい情報にアクセスできない場合の支援も、どのタイミングで、どの方法で、どの程度与えるのが適切かを考える。またはあえて与えずに、自ら探し始めるように内発的動機を刺激したり、知識定着の機会を学習活動として用意したりするなど、常に考慮することが不可欠である。ゲーム感覚や競争意識などを利用することが有効な場合もある。
知識習得と、調査力・議論する力・評価力などの基礎スキル習得のどちらが先か。定着する知識や使える知識というのは、結局、どのようなきっかけであれ自ら能動的に獲得したものだけである。授業で指導者が満足するような成果を得たとしても、長い目で見た場合に価値があるのは、知識そのものではなく、知識を得るためのスキルではないだろうか。そのスキルもまた、自ら能動的に得たものでなくては他の場面で応用できない。学生一人ひとりが自分の潜在的可能性に気づき能力を発揮するコツをみつけ、自分に合った学び方を体得していくことこそ高専教育へのアクティブ・ラーニング導入の意義ではないだろうか。
そう考えると、動機づけから始まり、基礎スキルの訓練、メタ認知力やスキル・知識の習得、自己評価を体験し、また、次の動機につながっていくスパイラルアップが起こることを、授業づくりの中で目指さなければならない。